AKOAKO’s diary

著作家☆西洋占星術研究家☆古代史研究者☆森村あこのブログです♪

☆Karl Lagerfeld Passes Away... ファッション界の巨匠逝く 

 

 

カール・ラガーフェルド..「ファッション界の帝王」

と称された巨匠がスーパーフルムーンとともに旅立ってしまった。

享年85

 ストイックだった巨匠...

乙女座生まれ

 海王星魚座の守護星だけれど、対抗の乙女座にあるとき、

乙女座の実質的で、ビジョンに潔癖性が加味される。 

世界は第二次世界大戦に入っていった時代に乙女座に海王星はあった。

それぞれの信じたヴィジョンに忠実に堅実で潔癖なまでに陶酔した、、そういう時代

 没我的でありながら、統制された、美観や美意識は、

この世代の特徴でもあると思う。

 ある意味では狭量ともいえるけど、そうしないと突出しない。

恋愛観は、ああなるほど、と思たけど、割愛する。

十分、ほかに材料でてるだろうから。

これは、特殊な性癖 しかも緊張したアスペクト

不可侵領域なので、敬虔なカトリック信者だったと思うけど、

司祭さまになってもいいくらい。

 

金星も火星も剋されてる。金星は完全に、、これは、....。

でも美のこの感性は、ぜんぶ、デザイナー職に注がれたのだろう

 活力も精力も旺盛な蠍座の第二ルーラーの火星なのに、

土星がタイトで水瓶座。みんな仕事に活かされたのだろうけど。

 アーティストとしては、やっぱり天才だと思う。

まず、金星と天王星オポジション冥王星がTスクエア。

金星が破綻しているほど、成功する。

簡単にいうと金星のアスペクトがイージーアスペクト(吉角度)だと所詮、

凡庸な芸術性で、センスなしっていう意味。

 凄い文句なしの申し子だったと思う。牡牛座の月は木星とトラインで、

深い愛情の持ち主で頑固な面があっても、

それをおぎなってあまりある愛情をもたらしていただろうと思う

 

 そして、、亡くなったタイミングは、天王星回帰、

そして、海王星が太陽にオポジション

そして、出生の冥王星冥王星オポジション... 

揃いすぎなぐらい..パーフェクトに揃ってる...

 こんな....本当にオールクリア!完全コンプリート。

お役を完了してのご帰還...

 天王星回帰は それだけでも、ひとつの区切り、

周期85年の星天王星は、人の一生。

これ以降は、ギフトと前に書いてきたけど。

冥王星のハードアスペクトは、これも、王道。惑星テーマは、終了していった

と解釈できるけど。 

 突出した人は、生まれチャートだけでなく、

死の間際も個性がでるのか....。ここまで、そろってると思わなかった。

 海王星は、この世ではなくあちらの世界.... 霊的なアストラル界

 太陽はそのまま自己をあらわすから、帰還の道がこのタイミングだったのか

 

 難易度最上位な上がり方なので、のせることにしたのだけど。

 中途半端な要素がいっこもない。性格はあらわれるのか、

最後までコントロールしていたとしかおもえないチャート。

 

 ずっと最前線で最後まで現役で...なかなかできることじゃないけど凄いな...

 まだ信じられなくて、、チャート見てなっとくしたけど、 

ファッション誌とかでは、追悼特集とかくまれるのだろうけど。

 占星術的にみて、帝王は最期まで帝王でした

 

たくさんの美と夢あふれる世界を魅せてくれて

ありがとう!!!!

 

 心からご冥福をお祈り申し上げます

   

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✨乙女座の満月☽スーパームーン~Super Full Moon in Virgo~

 

 

 20日は2019年最大のスーパームーン(乙女座満月)

 

 スーパームーン現象は、

楕円軌道で地球を周回する月の軌道上で地球に最接近時の満月のこと。

 

 今回のスーパームーンは、

前日19日の18時3分ごろに月が地球に約35.7万kmまで最接近し、

 約7時間後の20日0時54分ごろにちょうど満月となる。

 見ごろは「19日の宵から20日明け方」にかけてです。

 

 乙女座の満月は、乙女座0度、太陽魚座0度..イングレスで起こる

 パワフルなスーパームーンと重なって、影響力の強い満月。

火星、牡牛座、天王星牡羊座29度でこの満月に吉角度でアスペクト

 感情の奥底で、トラウマになっていたこと、

変えられなかったことを、手放し、

感情のコントロールをして、固定された反応パターンから抜け出す、

新たな自分と出会うように

過去を許して、自分にも許しを与えて、

本当の意味での癒しを受容する機会といえるでしょう。

 

癒えていなかったのは、あなたのどんな気持ちで、

どこに原因があって、まだ持ち越していきたいことなのか、

見つめなおすと効果的です。

 

 

 そして、このブログを書いてる2月18日は、冥王星の発見された日でもあります。

 90年前の1930年2月18日に、

アメリカの天文学者クライド・トンボーによって発見され

2006年まで太陽系第9惑星に位置づけられていた、

現在準惑星冥王星

惑星の発見時の事象はその惑星を象徴すると占星術は象意とするのですが、

冥王星(プルート)発見直後に、プルトニウムが発見されています。

 

神話のプルートが冥界の支配者(ギリシアではハデス)冥府の神を表すように、

その象意も「死と再生」をテーマにもっています。

 

 スーパームーンの20日は、金星、土星コンジャンクション

冥王星もすぐ近くにあり、

山羊座でステリウム(1つのハウスあるいはサインに星が3つ以上集まっている状態)

 調和をもたらす金星は、緊張した状態にバランスをもたらし、

 

 そして魚座では太陽、海王星、水星がステリウム。

水星と海王星は、タイトなコンジャンクション

ヴィジョンとイマジネーションの星座魚座での、

この集合は、海王星のイマジネーションやビジョンを水星を通して具現化する、

イデアやヴィジョン、理想の行く先を、

夢を顕現させる手段が見つかっていくでしょう。

 あるいは、普段なら黙っているような想像を、人に話したりすることで、

自覚化したり、出来るかも!という探求心や挑戦する心が後押しされるはず。

 

 このスーパームーンは、ある意味で最適化される、

更新される何かを暗示しているかのようです。

過去の未解決問題(だと思っている未消化の問題)やトラウマ、

感情的な怒りや許したつもりで、実は許せていなかったことは、

 それをたとえ無意識でも、持っているだけで、

現実の局面で重要なテーマや何かを疎外する作用になっていたりします。

 うまくいっていないこと、動きがとれないような状況の根本原因に、

そうした隠れた怒りやネガティブな、あるいは無意識の拒否や否定として、

受け取れるはずのものを 受け取れなくしている

ブロックとして、機能していたりするからです。

 心あたりのあるものは、冷静に客観視できるこの好機に見つめなおし、

ああ、もう本当に大丈夫、とっくに終わっているのに、

何をいつまでもこだわっていたのだろう

どうでもいいことなのに、気にして自分で枷をはめていたのかも...

 と まるでつきものが取れるように、

感情そのものをポンと手放すことができるはず

 

 心をソフトとしてとらえるなら、ソフトがアップグレードされるのです

 更新されたあとは、最初は なにか不慣れな、しっくりこない感じがしても、

 あっという間に 以前の状況が思い出せないくらい

 快適さに慣れ

 本来向かうべきものに、心おきなく専念できるように、

状況も環境も整えられえいくでしょう

 

 素晴らしいタイミングをぜひ活かしてください

 

 もうまもなく訪れる、天王星の牡牛座入り前の、

メンタル再調整だと思われるこのチャンスは

 

 

 過去を綺麗にクリーンナップして

 まっさらな状態で、混じりっけない 

スペシャルな未来へ向かうヴィジョンを

 個々のライフのなかで、 

どういう自分でありたいかの

 絶好で最高の思い描いたライフヴィジョンを実現させるために訪れるのです

 

 

 あなたの願い叶いますように✨ 

星々の輝きあふれるサポートであなたをバックアップしています

 

 そしていろいろ更新すべきものを再確認して、予定通りすすめてください!

 きっとうまくいくはず✨

 

 

 

 

 

✨冬将軍と春の大王

今週のお題「雪」

 

お外の風はつめたく轟々とうなりをあげ

 

冬将軍と春の大王様が戦っている...

 

冬将軍と春の大王様は幾度か戦って

 

春の大王様が冬将軍を倒すと

 

春が訪れる

 

春の大王様は冬将軍を倒すと共に

ちりぢりになって消えてしまう

流した血と汗は大地に降り注ぎ

雪をとかして

 

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春の大王様が消えたあとには

春の大王様がつれてきた

新しい姫と王子が

歌い踊って

春の風をあちこちに届けていく

 

夏は姫と王子が大人に成長していく季節

王子は夏の王になり

姫は王女へと成長

 

そして実の秋....王女は世界に実りをもたらすと

消えてしまう

 

悲しみにうちひしがれた王は

秋の間、王女の不在をなげくたびに

風は冷たさをまし

 

いつしか心が凍りついて

冬将軍へかわってしまう

 

そうして

 

毎年季節の物語が

 

重ねられていく

 

冬将軍と春の大王様との戦いは

いつも壮絶で

だいたい2, 3度大きなバトルをして

その度に

飛び散ったエネルギーで

自然界は目覚めはじめる…

 

オラはこのものがたりが

とても好きだ.....

 

たぶん

本来のストーリーから

少しズレてるかもしれない

 

幼稚園児の頃からずっと

 

季節の変わり目の度に

 

見えない季節の 王たちのバトルを

感じてきた…

 

ずっと心にあるものがたりは

かたられなければ

 

きっと消えていってしまうだろう

 

どんなに人が変わっていっても変わらない灯火を

季節のものがたりは宿している

 

いつも教えてくれている....

 

風のこえはいつも

気まぐれだけれど

 

大事なこともつたえている

 

お外で轟々うなりが聞こえているときは

みえないなにかが

 

動いているのだ....

 

 

 

 

✨激動の大正時代と大正天皇

 

 

★激動の大正時代と大正天皇

 

 

 大正天皇は、1879年(明治12年)8月31日、明治天皇の第三皇子としてお生まれになった。先に生まれた皇子はともに夭折しており、前回、出生の背景で書いたように、

 明治天皇と皇后美子との間には皇子女がおらず、明治天皇と複数の側室との間に誕生した弟宮の全員と妹宮のほとんどが相次いで薨去しており、大正天皇のほかに男児はなく、事実上の皇太子となった。

 

 生母は典侍柳原愛子。明宮嘉仁(はるのみや・よしひと)と命名された。

大正天皇は、生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重度な病気を患ったとされる。侍医の浅田宗伯によると「御分娩あらせられた時に湿疹を認めた」..と記録されている。

 

 誕生の翌年には、皇室の風習により、中山忠能の屋敷に里子に出され。

 1887年..8歳の誕生日の時に儲君となり、同時に皇后・一条美子の養子となった。

 (儲君は皇后の実子とされる慣例があったため)

 

 そして、東宮侍従の小笠原長育より礼法教育を受ける。

 小笠原長育より礼法教育を受けた際には、「母は皇后・一条美子である」と聞かされて育ったため、成人後に「生母が柳原愛子(幼少時からお側でお使えしていた女官)」と言われてもなかなかそれを信じなかったという。

 

 

 大正天皇のチャートを見ると、出生の乙女座太陽に天王星コンジャンクション

魚座木星オポジションを形成している。

 

 太陽と天王星コンジャンクションは、オリジナリティや独立性、人と同じでは満足しない個性派を生むアスペクト。太陽は父親の象意でもあり、父の独立願望の顕れ(父が体現できなかったこと)としての意味もある。 突発的で突飛な行動や、意表を突くことを好み、周囲を翻弄することも...。

 

 実際、大正天皇は、明治天皇と異なり、自らが周囲に影響を与える立場にいることを極力打ち消そうとしたり、皇太子時代には、沼津御用邸から自転車に乗って近くの家を突然訪問したり、宮城への帰りの道筋を予告なくわざと変更するなどの行動が目立ったという。

 迎合や従属を嫌う、天王星の風変りな体質がよくあらわれている気がする。

シンプルに言えば、立場を十分に承知の上で、周囲がどう動くかを心得た上で、御大層な対応をされることを極端に避けようとしていた気質は、天皇になってからも失われることはなく

 天皇になってから「大正流」を貫くことができず、体調を崩したという侍従の言もある。

 

 太陽木星オポジションは、楽観性やヴィジョン。思いつきや活力を大きくこえた可動をして、あとで大きな負担になることがあったとしても、損なわれない発展性の持ち主。

 木星天王星にオポは、改革的な意志や新規的な発展性への欲求をあらわし。新しいアイデアや計画のあめに周囲の多くの人を巻き込んでいく、実行力のあるヴィジョンに突き動かされるタイプ。地味で平穏な暮らしには本来向いていない。

 

 

 1887年9月に学習院に入学した大正天皇学習院時代には侍従にせがんで軍隊の背嚢を背負って登校し、

この「軍隊の背嚢」がランドセルの原型となったという逸話が残されている。

 しかし、健康に優れず学業に集中できなかったこと、学習院の厳格な規則に馴染めなかったことなどから、留年することもあった。そして1889年(明治22年)からは熱海への保養が毎年の恒例になった。

 

 1889年明治22年に、嘉仁親王は皇太子となり、立太子礼を挙行する。他方、学習院での学習は一向に進まず、乗馬などに進歩があった一方で、抽象的な思考を要する理数系の教科を苦手とした。

 

 1894年(明治27年)には、健康状態から学業を続けることが困難であるとして、学習院を中途退学。

 その後は赤坂離宮で数人の教師によるマンツーマンの授業を受けた。

 この時に帝王学の一環として重視された教科は、フランス語、国学、漢文であり、特に漢文を教授した川田甕江からは大きな影響を受け、漢詩作成を趣味としたという。

 

 「とくに漢詩への造詣は深く、

 後に(ご結婚後)健康が回復してからの嘉仁親王大正天皇の皇太子時代)は日本各地を行啓し、その範囲は沖縄県を除く全土であった。嘉仁親王は、巡啓中、興に乗れば漢詩を創作している。

 明治天皇昭和天皇が和歌を好み多く詠んだのとは対照的である..と評されている。」

 

 

 

 1897年(明治30年)8月31日、皇太子嘉仁親王は満18歳となり、貴族院の皇族議員となる。成年式は(祖母の英照皇太后の喪中のため)翌年の1897年(明治31年)に延期された。

 

 1900年(明治33年)5月10日、嘉仁親王九条節子(さだこ)と結婚した。このとき妻の節子は15歳。

 節子は女官のひとりだった。

 この早い結婚については、「病弱の皇太子に早めの結婚を」との意図があった旨を『明治天皇紀』では記述しているが、両親から引き離されて寂しい幼少時代を過ごした親王にとって、結婚は非常に嬉しい出来事だったようである。

 

 そして、結婚後は父の明治天皇とは対照的に側室を置かず一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという(大正天皇と節子は幸いなことに4人の男子に恵まれたため側室は必要なかったという事情もある)。皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であったが、側室そのものを事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。

 

 という上記の記述は、現実だが、太陽、天王星オポジションは、気の多い振る舞いとして見ることが多く。結婚後の離婚に至るケースのなかで最も多いアスペクトでもあったりする。

 しかしながら、大正天皇は、ほかの女官と交わることもなく、事実上、後宮的な存在が意味をなくし、住み込み女官の存在が必要なくなった。

 それは、記述にもあり、これの前にも 書いたように、出生の背景が大きくかかわっていると思われる。

母親を知らず、母親と思って慕っていた皇后は、母ではなく、お世話役だった女官が母親だと知らされた幼少期、他に兄弟もなく、みな早逝。 明治天皇は、養育にはいっさい関与しなかった(東宮職の役人に任せきり)。父不在の上に母親も精神的な意味でも現実的にも不在に等しい。なぜなら、公に甘えることは許されず、ずっと距離を保ちながら暮らさねばならなかった心中はいかほどであったろう。

 大正天皇が、節子のみを愛したために、昭和天皇はその姿から、それに倣って慣習を変えてしまった。

 それが、よかったかどうかはわからないけれど、

 

 ご結婚後の、健康のご快復も、それ以前とは見違えるほど健勝になったように見えたのは

安定した愛情関係が精神的安定と安心をもたらしたことによるものであることは確実だろう。

 

 いくらでもお相手は持てるのに 唯一の存在を欲しがった...チャートから見ると真逆の欲求。育ちはそれだけ、人を左右するケースでもあると思う。

 

 

 

 1907年(明治40年)初訪韓嘉仁親王大正天皇)は大韓帝国を訪れ、皇帝・純宗や皇太子・李垠と会っている。このときの大韓帝国は、被保護国とはいえまだ併合前の「外国」であったため、史上初めての皇太子の外遊ということになった。このとき、嘉仁親王は李垠をたいそう気に入り、その後朝鮮語を学び始めたという。

 

 また、嘉仁親王は欧米への外遊を希望する詩作を行い、民間でも新聞社説で嘉仁親王の洋行(ヨーロッパ行き)を歓迎する報道がなされた。

 だが、父である明治天皇の反対により洋行は実現されなかった。

 

 そのためもあってか、次代の長男・皇太子裕仁親王(摂政宮、後の昭和天皇)は1921年(大正10年)にヨーロッパ訪問を行っている。許されなかったことを、子供を通して実現するかのように...。

 

 

 

 

 明治の末期頃には、嘉仁親王はまだ病状が残るものの、健康を回復させつつあった。

 皇太子時代から巡啓に同行するなど近しい立場にあった原敬は、のちに語られる「大正天皇像」とは大きく異なる「気さく」で「人間味あふれる」「時にしっかりとした」人物像を『原敬日記』に記している。

 また、エルヴィン・フォン・ベルツは、欧米風の自由な生活を送る皇太子を好感を持って記している。

 

 大正天皇の人物像は、病弱、内向的な性格かと思いきや、チャートは破天荒でもあり、木星アスペクトのある人は、たいていそうなのだが、人当たりがよく、明るい気質で前向き。 大正天皇はもっとも人間らしい天皇だったという記述がされているのも、

 こうして辿ってくると、本当に例外的に、生まれた奇跡の皇子だったのかもしれない..という気がする。

 

 大正天皇の生まれのチャートは、ほかに水瓶座の月と獅子座水星のオポジションにTスクエアで牡牛座の冥王星アスペクト。月は、個人的な感情や母、そしてプライベートの象徴で、冥王星のスクエアは、

 5ハウスの楽しみを司る部屋にある水瓶座の月は、好奇心旺盛で、

冥王星のある8ハウスは、蠍座の司る部屋でテーマは性や死と再生。そこに冥王星が月にスクエアというのは、逃れられない宿命や、何度も生死を彷徨うような、ハードな体験、たとえば、自我が崩壊するようなアイデンティティクライシス、や逃れられぬ関わり、しかも集団的な作用を担っているために、乗り越えないことには使い物にならないような、きついプロセスを克服することで、成長を遂げる。

 あのハードな生い立ちも、病弱な身体や、孤独な環境も、意志とは無縁のところで、成長のために用意されていた宿命...という感じがします。

 

 本来安心や保護をもたらす月が、0~7歳までの年齢域を司る月が激しく傷つけられるので、絶望のアスペクトとも呼ばれる。幼少の頃に、人より達観せざるをえない状況に向き合い、キツイ環境から逃げることもできず、そのまま吸収されていく。

 

 オラは、自分も月と冥王星のスクエアをもってるので、母性とか信じてないんだな。本質的に、母性は与えるものでもあり、奪うものでもあることを知っている。 その本質は、月はけっして優しい存在ではないということを、依存対象としてはならないことを、学ばされるのだ。しかし、それは、母性の否定ではなく、そうしたエネルギーを持つものであることを知覚することで、振り回されなくなる。いやでも自立させられる、そういうアスペクトで、 それを補うアスペクトが形成されている場合は、他からのサポートがあり月を保護する。たとえば、木星が吉角度でとっているとか、感情保護された場合は、損なわれても補われるけれど

 大正天皇の場合は、水星にオポジションで、木星魚座でも10度も離れているので、幼少期は、大変な孤独のなかで、成長されたことがうかがえる。

 

 水星は、初等教育を表すけれど、これも冥王星のスクエア...。これは、偏りや、集中化の妨げになりやすく、暗愚とされたのも、身体的な理由だけでなく、後天的に強化されるまで、おそらく使えなかったのではないかと思われる。しかし、興味や関心のあることには没入していくため、一芸に秀でた人物になりやすい。偏りとは、すなわち突出するという意味でもあるから...。

 

 

 話が戻ってしまっていたので、本道に戻すと

 

 嘉仁親王大正天皇)は1900年(明治33年)にご結婚。

 結婚後は父の明治天皇とは対照的に側室を置かず一夫一妻を貫き、子煩悩で家庭的な一面を見せたという

大正天皇と節子は幸いなことに4人の男子に恵まれたため側室は必要なかったとはいえ)。

 皇室における側室の制度が法的に廃止されたのは後の昭和天皇の時代であったが、

 側室そのものを、事実上最初に廃止したのは大正天皇であった。

 

 大正天皇は、明治以降の皇室で初の一夫一妻制を採り、また誕生から即位を経て崩御まで生涯を通じて関東の地で過ごした最初の天皇である

 (ただし即位の礼などは京都出身である父・明治天皇と同様、京都御所で挙行した)。

 

 

 

 

 そして、運命の時が動き出すように、大きな変化が到来したのは

 

 1912年(明治45年/大正元年)7月30日、明治天皇崩御を受けて、第123代天皇践祚し、改元詔書を公布、即日施行して、同日は大正元年7月30日となった。「大正」元号の誕生である。

 

 大正天皇即位のこの日、木星は、出生の太陽、木星オポジションにTスクエア。プログレスの月(一日一年法)の月は7ハウス。

 

 

 このプログレスというのは、生まれた日から数えて、1年を1日として換算する手法で、

月のプログレスは、約28年でホロスコープを1周します。ひと星座を約2年半で移動。

 プログレスの月がサインやハウスを変えるとき、そのハウスのテーマがその時の人生上のテーマとしてあらわれます。

 1ハウスは、再誕生、リスタートのハウスであり、そこから半周する7ハウスは、それまでに培ってきたもの磨き上げてきたものを社会的に発揮していく、社会生活のスタートの部屋でもあり。だいたいプログレスの月が7ハウスになるときは、社会的なデビュー、仕事では発展の上り坂の、10ハウスの頂点を極めるまで右肩上がりのラインに乗ります。 なので、大正天皇天皇即位がこの7ハウスのPの月...なるほど、な。と思いました。

 

 ちなみに「プログレスの太陽」は、1年で1度、30年で約30度進行します。人生を長く生きるほど、生まれあ星座を越えて、次の星座のテーマ、さらにその次の星座と先へ進むため、目指す方向や価値観の大きな変容として現れたりします。

 

 本道に戻って、

 

 

「大正」の元号の名前の由来は『易経』彖伝・臨卦の「大亨以正、天之道也」

 (大いに亨(とほ)りて以て正しきは、天の道なり)から名づけられたもの。

 「大正」は過去に4回候補に上がったが、5回目で採用された。まるで時機を待っていたかのように...。

 

 

さらに解説すると

 

 * 『易経』彖伝..臨は、「地沢臨」世に挑む という卦である。

 

原文は

「臨、元亨。利貞。至于八月有凶。象曰、臨剛侵而長、説而準、剛中而応、大亨以正、天之道也。」

         

 臨の卦は、剛陽の気がしだいに盛んになり、上下親しみあって、悦び従う状態をあらわす。

 天道にかなって、大いに伸び栄える。変わることなく志操を守ってゆけば、万事順調。

 しかし、物盛んなれば必ず衰う。中秋八月、陽気衰退のときに至れば、凶へ転ずる。

 凶あらんとは、消ゆること久しからざるなり。象に曰く、沢上にある地は臨なり。

 君子もって教思すること窮まりなく、民を容保することかぎりなし。

 

 この後につづく、初九、咸臨。貞吉。....

  という「咸臨」は、万延元年(1860年)、日本人が初めて太平洋横断を成し遂げた咸臨丸(艦長は勝海舟) の船名の名づけの由来。

 

 ふと、、世に挑む臨の卦から名付けられたものへの思いを...深く感じ、

 島国日本にとっては、この 臨の卦は、とても重要なのかもしれない、と思い明記しました。

 開国は臨..そう思うとなるほどな..と思い、書いたほうがより深まる気がしたのら。

 

 

 そして、大正天皇プログレスの7ハウスの月は、まさに世に挑む...そういう時期と見事に重なっていることにも、符号を感じた。

 

 

 

 しかしながら

 大正時代は(年数が大正元年~大正15年の15年間で、期間は1912年~1926年の14年間)で日本史で一番短い時代区分である。それでいて、日本が初めて、世界と同期したといわれているのがこの大正時代。

 

 しかも

 1912年(大正元年)は辛亥革命が終わって中華民国が成立した年で、「民国N年」が「大正N年」に当たる。また金日成が誕生した年であり、「主体N年」も「大正N年」に当たる。

 

 大正の元号チャートを載せてなかったけれど、この時代、の空気をかの国が有しているのも、なるほどなぁ...と思ったり。

 

 

 しかし、ともかく スタートは順調ではなかった。

 

 践祚直後に起こった大正政変では、天皇詔勅を利用して反対勢力を押さえ込もうとする桂太郎の言うがままに詔勅を次々と渙発した。

 立憲君主制とはいえ、父・明治天皇と異なり政治的な判断が不得手であることが国民の目からも明らかとなった。

 

 元々政変向きのチャートで政治向きではない生まれだから、仕方ない..と思うけど

 

 践祚後は、全く自由の許されない超過密スケジュールで、極度に多忙な日々を送ることとなる。

 そうした渦中の、1913年(大正2年)5月には肺炎で一時重体に陥り、全快まで約1ヶ月を要した。

 チャート的には、トランシットの冥王星は月とトライン、木星はIC。致命的な感じでない。牡羊座の火星の6ハウス入りは、健康にとって、ハードワークや過労がたたって、不具合を生じた感じ。

 

 その後は葉山御用邸および日光田母沢御用邸で静養に務めた。この夏を境に、定期的に御用邸での静養が取り入れられた。

 

 

 ハードワークに耐えられるような身体では元々なかった大正天皇即位の礼は1914年(大正3年)に行われる予定であったが、妻・貞明皇后の第四子懐妊(後の三笠宮崇仁親王)により1年延期となり、1915年(大正4年)に京都御所で行われた。

 

 

 そしてこの年

 1914年7月 オーストリアセルビアに宣戦布告。第一次世界大戦勃発。大隈内閣、日英同盟を理由に対独宣戦布告。日本は第一次世界大戦へ参戦へ...。

 

 元老の井上馨はその機会を「天佑」と言い、日英同盟を理由に参戦した。本土や植民地が被害を被ることこそなかったものの、連合国の要請を受けてヨーロッパにも派兵し多数の戦死者を出した結果、戦勝国の一員となった。

 

 発生直後こそは世界的規模への拡大に対する混乱から一時恐慌寸前にまで陥ったが、やがて戦火に揺れたヨーロッパの列強各国に代わり日本と米国の両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させ、日本経済は空前の好景気となり、大きく経済を発展させた。

 特に世界的に品不足となった影響で繊維(紡績産業・漁網製造産業)などの軽工業造船業・製鉄業など重工業が飛躍的に発展して、後進的な未発達産業であった化学工業も最大の輸入先であるドイツとの交戦によって自国による生産が必要とされて、一気に近代化が進んだ。

 こうした中で多数の「成金」が出現し。政府財政も日露戦争以来続いた財政難を克服することに成功する。

 

 

 大正の時代とともにはじまった激動は、勢いさらに増していく。

 

 

 1917年(大正6年)には、立憲政友会などの政党政治に反対する山縣有朋への反感から枢密院議長の辞任を迫り、初代朝鮮総督寺内正毅首相率いる寺内内閣がそれを押しとどめる事件も起きている。

 

 そうした政治情勢の狭間で、大正天皇

 御用邸での休暇時には、ヨット、乗馬や漢詩作りに癒しを求めていく。

 だが、第一次世界大戦による国際情勢とその中における日本の立場の大きな変化は、僅かばかり残された天皇の自由をさらに奪っていくことになる....。

 

 心中はいかほどだったろう...父上である明治天皇に遠く及ばない体力と政治力、そのうえ、明治以上のスピードで変わりゆく世界。明治は、牡牛座冥王星時代だったけれど、大正時代は冥王星は双子座を進行、天王星水瓶座に守護星座回帰した時期にはじまっている。

 文明化の躍進的な大発展と、産業化、文化のすべてが。より一層洗練されていったこの時代、強烈な加速と反比例するように、大正天皇は、ご自身の大事ななにかを損なっていった感じがする

 

 

 1917年(大正6年)頃から、公務や心労が病の悪化に輪をかけ、公務を病欠することが多くなり。

 1919年(大正8年)の年末には食事を摂ることも勅語を音読することもできなくなるほど病状は悪化していた。 1920年大正9年)3月26日、東京帝国大学教授三浦謹之助は「幼小時の脳膜炎のため(中略)緊張を要する儀式には安静を失い、身体の傾斜をきたし、心身の平衡を保てない」という診断書を提出した。

 これを受けて松方正義内大臣原敬首相に摂政の設置を提案したが、当面は天皇の病状を公表して関係者や国民の心の準備を待つこととした。

 

 そしてこの間、さきにも書いたけれど 1918年(大正7年)11月11日に第一次世界大戦終結し、

 日本は連合国の一国「五大国」として戦勝国の一員となった。 列強入りした明治からさらなる成長を遂げた。

 

 ついでに

大正デモクラシー時代は、1918年(大正7年)の米騒動の前と後で分けられることが多いが、米騒動後同年に初めて爵位を持たず、衆議院議席を持つ平民の原敬(平民宰相とあだ名された)が日本初の本格的な政党内閣を組織。

 

 日本はその後のパリ講和会議にも参加し、国際連盟常任理事国の地位を得るなど、アジア・太平洋地域での自国の権益を拡大していった。

 

 そうした背景のなか、摂政設置の動きが活発化するのは翌1921年(大正10年)半ば。

 原首相や山縣元老を中心に根回しが行われ、政府内の了解が固まり。10月4日に宮内省(現在の宮内庁)から「快方に向かう見込みがない」旨の病状発表がなされた後に、

各宮家から了解を取り、10月27日には松方内大臣大正天皇と当時20歳だった長男の皇太子裕仁親王昭和天皇)の承諾を得た。

 

 どんどん切り離されていく大正天皇。それも天の計らいだったのだろうか...という気がしないでもない。

 

 

 そしてついに

 1921年(大正10年)11月25日に皇太子裕仁親王大正天皇の病状悪化によって摂政宮となった。

  (この少し前、同年、11月原敬首相、東京駅頭で暗殺されている。)

 同時に宮内省から『天皇陛下御容體書』が公表されるとともに、出生以来の病歴が別途発表された。

 このため、後々にも「病弱な天皇」として一般に認識されることになった。

 この後、大正天皇が政務に復帰することは無かった。

 

この同時期、

力強かった時代の明治時代を見直す機運から明治天皇昭憲皇太后を祀る明治神宮が建立された。

 

ここで摂政について注釈

 *【摂政】

   日本史上における摂政とは天皇の勅令を受けて天皇に代わって政務を執ること。

  またその者の職であると定義される。

  日本史上における最初の摂政の事例は、

 『日本書紀』に残る、推古天皇の時の厩戸皇子聖徳太子)が摂政となったのが起源。

 『日本書紀』の中で神功皇后が執政した時期は「神功皇后摂政紀」と呼ばれているが、

  これは同皇后紀を呼ぶ場合の便宜的な呼称であり、摂政という用語は神功皇后紀の本文中には登場しない。

 以降何人かの皇族が摂政を行ったが、律令において摂政を執る役職は規定されなかった。

  

 しかし、866年に藤原良房が臣下として初めて摂政となって以来、

 天皇外戚となった藤原氏藤原北家)の者が摂政・関白に就く例が生まれるようになった。

  

 そして、幼少の天皇には摂政が、成人後の天皇には関白が置かれる慣例が確立したのは

 61代の天皇朱雀天皇)の在位中に摂政から関白に転じた藤原忠平が初例であるとされている。

 

 

 諸外国では、

  摂政(Regent)は、君主制のなかで、君主がその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、

   君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のこと。

  多くの場合、君主の後継者(皇太子など)兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任した。

 

 

 

 大正天皇が実質的に政治的に表舞台に立つことは、皆無だったのではなかろうか...と思う。

 生まれながらに象徴天皇だったのは、この方ではなかろうか。

 そして、もっとも人間的な天皇だったと、明治、大正、昭和と天皇の身近で侍従をしてきた坊城氏は、のこしている。

 

 人は、表面にあらわれた事象しか判断できない。大きな流れのなかで、日本の根幹に、深く痛みを感じながらお過ごしになっていたことなど、この時代の人たちも到底考えもしなかっただろうし。たいてい、歴史の裏舞台は、表が激しく華々しいほど、とてつもない犠牲を払っていたりする...。

 

 言葉に詰まるくらい、教科書に書かれていた大正天皇とこうして感じ取ってきた人物像には隔たりがある気がするのはオラだけではないだろう。

 

 

 

 

 大正天皇が政務から離れた翌年、

 1922年(大正11年)4月にイギリスのエドワード王太子(後の国王エドワード8世(後のウインザー侯爵)が

プリンス・オブ・ウェールズとして来日した。

 裕仁親王(後:昭和天皇)の訪欧の返礼としての日本訪問であった。

 滞在は、1か月近くに及んだが、天皇の病状を憚った日本側は天皇と英国王太子の面会を設定しなかった。

 

 

 この時代、生きてたら、ご尊顔を拝みに行きたかったにゃ~(;・∀・)あああああ というオラの叫びはおいといて。

 

 病状は芳しくない状況のなか。6月20日には長男の皇太子と久邇宮家の良子女王(香淳皇后)の婚姻の勅許を下している。

 

 

 この年(1922年)は、世界では、イタリアでムッソリーニファシスト党によるローマ進軍。ムッソリーニ内閣成立。モスクワにて第一回ソビエト大会。ソビエト連邦成立した年である。

 

 

そして、

 1923年(大正12年)9月、関東大震災。が突発。南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害である。

 

 この時、トランシットの土星がタイトに大正天皇のASCにあり、出生の土星オポジション

トランシットの天王星が出生の天王星オポジション

 ミッドライフクライシスのど真ん中..。それも最期とトドメの土星のハーフリターン。

そうとう、きつかったと思われる。

 トランシット上では、蠍座木星と、魚座天王星、蟹座冥王星がグランドトラインを形成。蟹座の冥王星は、地盤から揺るがす。

 

水の大三角での大惨事は、相当もってかれるんだな..っていうのは、個人感想だけど、規模が大きく死者数も近年数字を訂正されたとはいえ、10万人をこえている。 まるで、奪ってきた命を贖っているかのよう

 

 

 激甚災害であったため、首都機能はダウン、治安悪化に伴い、戒厳令も出された。 

 

 当然、復興には莫大な財が必要になる。

 

 

 震災の混乱で

 金融の停滞で震災手形が発生し、緊急勅令によるモラトリアムを与えた。

 復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は、火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた。

そして

 モルガン商会(モルガン財閥)は1931年(昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものだった。引受にはロスチャイルドも参加した。金策には森賢吾が極秘で奔走した。

 

 日英同盟の頃から政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債社債両面での対外債務を急増させた。また震災不況から昭和金融恐慌(1927年(昭和2年)3月~)、1930年(昭和5年)行われた金解禁はそして世界恐慌(昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため、翌年には金輸出(再)禁止になった。

 

 

 関東大震災は、その後の日本を変えた歴史的事象。まもなく100年が経過する。防災の日は、この関東大震災の起こった日にちから生まれた。

 

 

 最初に、大正元号のところで、臨の卦を、最期まで書いたのは、まるで、、まるで、先を暗示していたように思われたからだ。

 

 

 

 そして大正天皇は、

 

 1925年(大正14年)5月10日には結婚満25年の節目を迎え、久々に謁見所に出御、皇族総代、加藤高明内閣総理大臣、濱尾新枢密院議長から祝福を受けている。

 同年12月19日に重度の脳貧血の発作を起こし、貞明皇后も驚愕、翌日未明まで看病を続けたが、この心労で皇后も体調を崩し、半月ほど寝込むほどであった。これ以降、天皇は4ヶ月に渡り、ほぼ寝たきりとなった。

 

 1926年(大正15年)5月8日には病床を離れ、歩行も可能となったが、同月11日には再度脳貧血の発作が見られ、病床に就いた。

 8月10日、天皇は帯で縛りつけられるようにして車に乗せられ葉山へ向かったとされる。

 その後も、天皇の病状悪化はとどまらず、言語障害、記憶障害、歩行困難に加えて神経痛も進み、手の指を自由に曲げるのも不可能な状態になっていた。

 

 その後、日光・沼津の各御用邸で転地療養を続けた後、1926年(大正15年)8月10日に葉山の御用邸に転地。

 

しばらくは病状が落ち着いていたが、9月11日に脳貧血の発作を再発、10月下旬には食欲が減退、気管支炎の症状もみせ、日中でも寝ていることが増えてきた。

 

 やがて流動食しかとれなくなり。12月8日には再び気管支炎が悪化、体温上昇も著しくなり、翌日以降も症状は改善せず、病床で療養する日々が続いた。

 

 

 このようななか、宮内省から『天皇陛下御異例』と言う見出しで病状経過の発表があったのが、12月15日であった。同時に9月11日に「脳貧血の御症状」を再発、10月27日から「御睡眠勝ちにして御食気減少」し、11月14日以降は「軽微なる御せきおよび少量の御かく痰あらせら」れ、12月に入ると「御体温昇騰し御脈拍御呼吸数とも増進」したことが明かされた。その翌日12月16日には「天皇御病状頗る重篤」に陥り、各皇族、王族、元帥、閣僚らが続々と参邸する事態となった。

 

 

 東京日日新聞など新聞各紙は16日以降、連日、号外を出して一進一退する天皇の病状を伝えた。しかし、24日、冬の陽光に包まれていた葉山御用邸は午後から厚い雲に覆われ、いつしか雪も舞い始め、雷鳴も響いた。

 

 

 1926年12月25日午前1時25分、静養中の葉山御用邸において、長く会えなかった実母・柳原愛子(二位局)の手を握ったまま、心臓麻痺により崩御。宝算47。

 臨終の床に生母を呼んだのは妻・貞明皇后の配慮だったという。

1927年(昭和2年)、大正天皇の大喪

 崩御後には「大正天皇」と追号され、1927年(昭和2年)2月8日、天皇として史上初めて、関東の地にある多摩陵

 

 

 

 大正天皇の逝去の時のチャートは、MCにピッタリ蟹座の冥王星が重なっており、水瓶座木星が出生の月に、これもタイトにコンジャンクション

 

 出生でMC(天頂)に冥王星の場合は名声や権力を表す

 けれど、出生のMCにトランシットの冥王星コンジャンクションする場合、

 それは、社会的な頂上、社会的な使命の達成ポイントで、死と再生が起こる

 文字通り、大正天皇は天に召されてしまった。

 それまでのお役を終えて、完全コンプで全うされた。そういう事象。

 そして、月の木星は、身体的には闘病のなかで、もうほとんど意識も残っていたかわからないけれど

生母の愛子さんに手をとられ、愛する皇后とご家族だけに囲まれて、愛に満たされた状況のなかで迎えられた死であったと思います。

 

 幸運な死....それは個々によってそのイメージも欲しているものも当然異なるのだけれど。

大正天皇は、ずっと母のあたたかみを知らず、安心のない状況でお育ちになり、帝位を継承してからも

政治では蚊帳の外、どこにも安寧などあらせられなかったと思われるけれど

 愛妻家を地で歩まれたように、愛する者を大切に思うお気持ちは人一倍お強かったのではないかと思う。

 

 大正天皇臨終の際、母である柳原愛子は鎌倉の別宅から毎日葉山へ看病に通い、皇后は「何をおいても御病室に通せ」と女官に命じていた。このとき病室へ入れたのは、皇后の意思により看護の者を除いては皇后と皇太子夫妻、直宮たちと柳原愛子のみであった。

 病人の妻子と実母のみの病室であった。と当時の記録では綴られている....。

 

 

 大正時代は近代日本にとって、世界と肩を並べる、本当に大躍進の時代でした。

 時代背景は、本当にたくさん、とても15年(西暦では14年)の間に起きたとは思えない、newsは盛りだくさんありましたが、それはまた、別件で、元号チャートを書くことがあったら、解説しようと思い割愛しました。

 

 思うところは、たくさんあり、書ききれていないこともありますが、

 みなさんのなかで思う 大正時代、そして大正天皇になにかを添えられていたら幸いです

 

 

 

添付の画像は、大正天皇の出生チャート、大正天皇御即位、関東大震災大正天皇崩御、結婚の儀に臨む皇太子嘉仁親王大正天皇

★大正天皇出生の時代背景

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大正天皇出生の時代背景

 

大正天皇、大正時代へ至る前に、どうしても素通りできないのは、大正天皇の出自について....。

 

 大正天皇の生母は、柳原愛子で、明治天皇の女官

 

 柳原家は鎌倉末期から続く家で、戦国時代には武士に所領を取られて因幡(現・鳥取県東部)の領地だけは残ったため、京から因幡へ下向して生き延びた一族で、江戸時代は武家伝奏議奏などの要職に就く人もいた。議奏は当番制だが、他の高官よりも天皇の日常生活に関わることが多く、侍従よりももう少し政治よりの役職というポジション。

 そうした家系に生まれた愛子は、11歳のとき仕え始め、掌侍(しょうじ)、権典侍(ごんのてんじ)と昇進していった。掌侍は皇后の世話役、(権)典侍は宮中の女官たちのトップで、江戸城の大奥でいえば掌侍が御中臈、典侍が御年寄にあたる。

 

 愛子は三人の子供を産んだが、成長したのは後の大正天皇である明宮嘉仁親王だけだった。

 

 明治天皇の皇子女 亡くなった10人は、死産を除いて、すべて慢性脳膜炎であった。大正天皇自身も誕生後まもなく脳膜炎様の病気を患い、その後遺症に苦しんだ。

 

 男子は大正天皇を除いてみな夭折した。

 

 一説によると、明治天皇は梅毒持ちで、それが、皇子皇女の脳隨炎の原因だったのではないかと言われている。

 梅毒もちか、、、あの蠍座土星天王星、ウィルス疾患もっててもおかしくないけど。下品だけど、精力は旺盛そう。

 

 しかし、とりあえず、公式では、「脳膜炎様病症は慢性鉛中毒症である」との研究成果を発表し。皇子女の脳膜炎様病症は、白粉から母親の体内に入った鉛毒・水銀毒の結果である」と推定された。ウィルス性の遺伝や感染に関しての可能性は排除されている。

 

 話がそれるので、これくらいにするとして。

 

 愛子は、臣下として明治天皇に仕え、幸運に 子供を授かったが、当然ながら、妃や皇后になることはできなかった。そして、大正天皇は 身体が虚弱であるだけでなく暗愚だったといわれている。 画像は、13歳のころの見ると....う~ん。13歳?でこれ? という確かに心配になるお顔だとはおもった。

 

 でも、後天的にいくらでも強化できるので、相当英才教育されたであろうとは思う。

子供のころ才気活発でも、成人したら埋もれていくケースは五万とあるのだから。幼少時代だけでは判断できない。

 

 愛子にとって20歳で大正天皇を産んだのが最後の出産で、その後も宮仕えを勤勉に続け、43歳で典侍として女官たちのトップに立ち。

 

多くの新入りを育てた。いわゆる新入りの生活指導...。この世話役は「お世話親」と呼ばれた。

 

 愛子がお世話親になった人の多くが後々まで感謝をしているあたり、かなり気配りのできる優しい人だったと思われる。

 

 その一人が大正天皇の皇后・貞明皇后でした

 あとで また書くかもだけど、 大正天皇は、女官に手を付けて妊娠させた。それが後の貞明皇后

 

 皇太子時代の大正天皇の妃として貞明皇后が宮中に入った際、愛子は教育係の一人でした。「実の母とも思った」というほど愛子に感謝しておりますから、本当に優しく指導してくれたのでしょう。

 

貞明皇后はその恩を後年まで感謝し、大正天皇が亡くなる間際には特別に見舞いに来られるよう計らっています。

 一方、大正天皇はある程度成長するまで「母は昭憲皇太后」と教えられていたため、実母が愛子だと知った際、かなりのショックを受けたとされる。

 

 ちなみに、明治天皇の子女の一覧を列挙すると...。

 

稚瑞照彦尊 (わかみつてるひこのみこと、1873年明治6年)9月18日 - 同日)明治天皇第一皇子で第一子。        明治天皇の初めての子であるが死産であった

       (母の葉室光子(1853-1873)も4日後の9月22日に逝去している)。

 

稚高依姫尊  (わかたかよりひめのみこと、1873年明治6年)11月13日 - 同日)

        明治天皇第一皇女・第二子。母は橋本夏子(1856-1873)。死産であり、

        母も産後の経過不良で出産翌日に死去している。

 

梅宮薫子内親王 (1875-1876・第二皇女・夭折 ) 母は柳原愛子(1855-1943)

 

建宮敬仁親王  (1877-1878・第二皇子・夭折 ) 母は柳原愛子

 

明宮嘉仁親王  (1879-1926・第三皇子・大正天皇)母は柳原愛子

 

滋宮韶子内親王 (1881-1883・第三皇女・夭折 ) 母は千種任子 (1856-1944)

 

増宮章子内親王 (1883・第四皇女・夭折 ) 母は千種任子

 

久宮静子内親王 (1886-1887・第五皇女・夭折 ) 母は園祥子 (1867-1947)

 

昭宮猷仁親王  (1887-1888・第四皇子・夭折 ) 母は園祥子

 

●常宮昌子内親王  (1888-1940・第六皇女)事実上の長女にあたる)母は園祥子  夫は竹田宮恒久王

 

●周宮房子内親王  (1890-1974・第七皇女) 母は園祥子  夫は北白川宮成久王

 

●富美宮允子内親王 (1891-1933・第八皇女) 母は園祥子

 

満宮輝仁親王   (1893-1894・第五皇子・夭折 ) 母は園祥子

 

●泰宮聡子内親王  (1896-1978・第九皇女) 母は園祥子 夫は東久邇宮稔彦王

 

●貞宮多喜子内親王 (1897-1899・第十皇女・夭折) 母は園祥子 

 

 ↑ いったい何かの呪いか?(実際、そういう説も残っているが) っていうくらい、ちょっと唖然とした。

 ここまで子に恵まれないっていうのは... よほど何か問題が(梅毒説があるとはいえ)あったのか

 実際、無事に育った、大正天皇も幼少のときに、脳隨縁を発症したらしい。

 

 一夫一婦制を導入したのは明治期だけど、一夫一婦制だったなら、後継天皇の存在は授からなかったことになる。そういう家系...そして女系といわれる所以。男児が育たない、子宝に恵まれない傾向があった。

 

 側室設けたほうがいいだろうに、なぜなくなったかは、昭和天皇のところで書こうかと思っていたけれど、大正天皇が、娶った、もともと女官だった節子一筋で、ほかの女官と交わらなかったため。昭和天皇は、それに倣った(廃止した)といわている。

 

 とりあえず、大正天皇のご尊顔と、ご兄弟の系図の画像をUP

 

 大正天皇嘉仁親王)は、弟宮の全員と妹宮のほとんどが薨去しており、年の近い兄弟姉妹が少なかった。そのため、家族と接する機会があまりなかった…。

 

 ということで、

 大正天皇の出生チャートは この次のせます

 

 わざわざ背景を乗せたのは、人物像も、帝位が短かったせいで、あっさりしたことしか正直知らなかったのだけど、噂以上というか、ここまで、、とは思わなかった。皇統存続の危機が、この時点ですでにあり

 明治天皇大正天皇も、正妻の子供ではない、嫡子ではないわけで

 

 明治天皇にいたっては、養子、大正天皇庶子である。

 

 皇室典範の第1条には、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と、うたわれている。

天皇の血族の男性しか天皇になれない。 けれど、現在一夫一婦制...

 

 この先、、時間の問題としかいえない状況で。後宮つくるべきだろう...ときっと誰もが思てるだろうに。結婚制度なんか無視していいから、そもそも導入から100年もたっていないのだ。廃止してかまわない

 と、オラは乱暴なことを思っている。

 結婚制度を 疑問に感じない人たちにとっては、至極当然に受け入れられてきたのだろうけど。なにを手本にしたかわかっているので、個人的には、なくていいと思っている。

 ただ、共同生活における控除とか子供の扶養の問題があるので、法整備はいるのだろうけど。やりようは、いくらでもあると思っている。 そういうの模索する気がないだけで...。

 

 こんなところで脱線してるんじゃないよ! (;・∀・))

 

 というわけで、次回は、大正天皇のチャート見ていきます

 

 大正時代は、大正デモクラシー第一次世界大戦

日本はドイツ帝国に宣戦布告、関東大震災

モダン文化が生まれたこの時代

 日本は激動の時期を迎えていった...

 

 中では辛亥革命がおわった時期にかさなるこの時代は女性運動も盛んだった。

 資本主義に反対する社会主義の台頭や、

護憲運動、あげたらきりがないくらい、たった15年とは思えないほど実は濃ゆい...

 

 そういうの含めて、解読していけたらとおもっています。

そりでは小休止(;・∀・))

 

 

 

お読みいただき、ありがとうございます!

 

 

 

 
 

✨時代異変の象徴と明治天皇

 

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★出生図から読み解く明治天皇

 

 チャートで特徴的なのはいくつかありますが、

 出生の蠍座太陽に対する牡牛座土星オポジション

 そして

 太陽、天王星オポジション。オーブあるものの

この時期、牡牛座に、冥王星がinしたばかりで、天王星土星と大会合していました。

 

 これは象徴的な事象だと思います。

 

 冥王星の発見は1930年なので、この時代にはまだ存在は知られていませんが。逆に言えば潜在的名ポテンシャルが最も高い状態で、無意識下の見えざる作用として、

時代異変を起こしていったのではないかと思います。

 

 (黒船の来航は1854年冥王星が牡牛座入りした年でした。天王星も牡牛座にコンジャンクションで起こった出来事です。日本は開国へ向けて舵取りがされていく、

新時代の夜明け...王政復古の大号令もこの冥王星牡牛座時代のできごと...)

 

 

 歴史は、ときに、ひとつの国全体や、文化や宗教を変異させるように、

偉大な個人を生むことがある。

それは、まるで、その個人のなかに理想として出現するかのように、ある目的の遂行のために 歴史の中心へと導くように...。

 

 歴史の中心におかれるような偉大な個人、あるいは突出した人物には、もろもろの才能や、使命と呼応して、まるで決まり切っていたとでもいうかのように、壮大なヴィジョンを具現化し、その持てるものすべてが完全に発揮され開花していく。

 時代を象徴するかのような人物は、えてして、その地位に限定されることなく、あるいは地位や役職におさまりきらないとでもいうかのように、その置かれた立場や役柄の責務を果たすにとどまらず、そのイメージさえ突破していく。そういう存在が 歴史的偉人...というのは、共通見解だと思う。

 

 とはいっても、

 歴史を振り返ること 大国の世襲制は、最初からすべてを飛び越えた存在として生まれ。誕生したときから、すべてを手中にした存在。

 それゆえに、こうした君主は偉大さを発揮することから、逆に遠ざけられ、内在のあらゆる力や才能を発揮するように鼓舞されたり、導かれない、むしろ抑制されたりするケースのほうが圧倒的に多かったりする。

 例外的に抜きんでた世襲の君主の例は、アレクサンドロス三世。そしてカルル大帝やピョートル大帝、フリードリヒ大王など。 

専制君主の特徴をあげると 脱線するのでこれくらいにして

 

 あえて、これを書いたのは、

 

 明治天皇の太陽、土星オポジションは、

 太陽という自我を表す主体性の星に、制限と抑圧を司る土星が、そのまま 力のある人が太陽を抑え込む

というカタチです。 太陽の自我、アイデンティティを棄てて、土星(権威や権力)にすべてを委ねたときに、伝統や組織、

大義名分の代弁者として振る舞うことが可能になる

そういうアスペクト

 

 けれども、これだけだと、抑圧された太陽意識が歪みをうみだし、影や悪意などをつくりだすこともある。

 

 そして、 惑星は 遠いもの(公転周期の遅い)ほど影響がより深いので

太陽に天王星オポジション、これも非常に効いてると思います。

 

 いま、いえ今年3月には、天王星はこの明治天皇の出生時とおなじく牡牛座入りします。昨年一度入りましたが、3月6日に、牡牛座へ入る。 

そして天王星は、2周目...167年 前と同じ星座に入座

 

 リベンジか! リベンジだろう! とオラの背後はいってる(;・∀・)

 

 それはともかく、天王星オポジションは、独立や分離、改革の星である天王星が関与するので、自主独立の立場は大歓迎、あまり痛みも感じない、自由さがあります。

好んで革新的なことをしていくタイプもいますから。

 そして、オーブありますけど、牡牛座に冥王星が入っていたこの時代は

牡牛座の象徴するテーマは、所有、保守、価値、安定、金銭、 土の星座特有の固着や執拗さを性質的に持ち合わせているところに、それに反する 安定していたものを変えていく天王星、そして、価値基準、質、そのものを変容させる 

冥王星があったということは、

 一時代丸ごと、それ以前のモノから造り替えていく、大きな時代性の潮流のなかで

 

 個人としてそれを象徴するに至ったチャートとしては、本当に教科書的というか

壮絶なものを感じます。

 

 パラダイムチェンジにも、いろいろあると思いますが、思想や宗教なら風や火、あるいは水のサインだったり土のエレメントは、

そのまま物質や社会基準、規範にかかわるサインですから、

近代化の 背景には

大惑星の土のエレメント最初の星座で起きた、

本当にはじまりだったのだと思います。

 

 2019-2020のグレート、およびトリプルコンジャンクションは、土のエレメント最期の山羊座土星木星冥王星は会合し、

天王星は、この時期と同じ牡牛座で、土のサインに変革を起こしていく流れ

 大きな価値観の刷新に 今度もなるとおもわれます。

 

 社会の全体構造を根底から覆し変化させるほどの動きは、数百年や数千年単位の変化なので、くるときは、すべてが塗り替えられて行く。最近の前例としては、まさにこの時代、そして、いまも、まさにパラダイムチェンジ期に突入しつつあります。

 

 という感じで 横道にそれると、いけないので脱線はこのくらいにして

 

 明治天皇の、アスペクトは、他に魚座海王星蠍座の太陽とトライン。海王星も現在、守護星座回帰して魚座にあるので、

本当に、なんという符号だろう...と感じますが。

 

 太陽、海王星のトライン(120度)アスペクトは壮大な夢やヴィジョン。

政治家や実業家に多いアスペクトで、

多くの人をまとめ、共通の目的に推進することに手腕を発揮する

 

 さらに、ラッキーなアスペクトともいわれるのは、海王星木星の拡大バージョンなので、幸運にあずかりやすい。努力なく幸運にあずかるともいわれる。

 それは、冥王星とは異なる意味で ある種の宿命的ななにかが働いた場合、

その人の人生に付与されるのではないかと思うです。

 

 明治天皇海王星は1ハウス。

自己のアイデンティティ土星天王星冥王星に剋されえいるなかで

唯一の救いは、この 海王星の理想と希望ではなかったか...

 そんな気がしてなりません。

 

 海王星はとくに魚座は自己犠牲ともいわれる星座であり、わが身を投じて、それを立憲君主制という新しいスタイルの創建のために、他のすべてを相殺できるくらいの大きな ヴィジョンをお持ちであったのではないかと思います。

 

 そうでなかったら、あの明治様...として国民から、そして世界からも認知される存在になりえなかっただろうと。

 

 そして、天頂MCの蠍座木星、射手座火星のコンジャンクション

 これはそのまま社会的な野心。活動力も旺盛で、多くの諸外国の要人と交流された背景は、この天頂の星々の影響だろうと感じます。実は華やかで派手さは好きだった

 

 水星の蠍と牡牛座土星オポジションは、研究熱心さや特殊な趣味、秘密主義の傾向があり、けっこう裏ではこの人も、何をしていたかわからない。そんな気配も感じます。 イメージがひとり歩きしているから尚更...。気に入らない 人事に裏からいろいろやったんじゃないか、この時代暗殺は多かった...。とか

ふと不穏な方向性もうかんだり

 

 蠍座も牡牛座も執念深さではぴか一で、許さないところがある。

執拗に...あの例の暗殺劇は

ともすると、執念の賜物ではなかろうかと、、完全に 脱線していますが。 

いずこの国でもむかしから、王族暗殺は未遂でも斬首、

死刑は免れない。公にそれをできないとあったら、さてどうするか

 と思ったら、国土から離れた場所で、、ていうのは お約束というか。

 なので、、あの事件は、単独犯行などではなく、本当は、つながりを残さないカタチで(蠍座的陰謀)抹殺されたのではないかと

いま、チャート見てておもった。

 完全な私観なので、 あれだけど。 替え玉説とか、孝明天皇はまず間違いなく策略によって消された線が濃厚だけれど、 明治天皇のチャートを見ると、相当強いチャートの持ち主なので、陰謀や謀略、奸計にも強かったと思う。 

 

 ちなみに、チャートから見ると、ASCの水瓶座は中性的(性別を感じさせない)でやせ型、目鼻立ちの個性的な顔立ち。大きな額と大きな頭部、神経過敏、動物的な本能から縁遠く、知性的。というのが外観にあらわれる特徴だったりする。.... 

 

 

 話がそれまくったけど

 

 大政奉還のとき(1967年11月9日)は、1ハウスに木星が入っていた。

 

 画像は、五箇条の御誓文の発令の日のチャート。

1868年4月6日、冥王星が出生の土星コンジャンクション

ということは数年前に太陽とオポジションを形成していたということで

 完全に国家体制に取り込まれていくカタチで 運命に投じたのかもしれません。

 新政府の基本方針を表明したのは、この年の6月11日。

政体書によって新しい政治制度を採用。

 明治と改元して一世一元の制を定めた(改元詔書を発したのは1868年10月23日。

 

 この後は、明治15年(1882年)、陸海軍を「天皇の軍隊」と規定するとともに、「忠節・礼儀・武勇・信義・質素」という軍人としての5つの基本徳目や、軍人の政治不関与を命じた軍人勅諭を発するなど。

近代国家の体制づくりが進行していく

 

 明治17年1884年)以降は、間近に控えた議会創設に備えて、立憲制に対応する諸制度を創設。

 内閣制度、市町村制、府県制、郡制の制定など、

官僚制支配体系の整備と並行して、莫大な皇室財産の設定を行った。

 

 そして明治22年(1889年)2月11日、大日本帝国憲法を公布。

 この憲法は、日本史上初めて天皇の権限(天皇大権)を明記しており、

立憲君主制国家確立の基礎となった。 

大日本帝国憲法はだいぶ前に書いたので、割愛。

 

 翌明治23年(1890年)10月30日には教育勅語教育ニ関スル勅語)を発し、

 近代天皇制国家を支える臣民(国民)道徳の涵養に努め。

 帝国議会開設当初は、超然主義を唱える藩閥政府と

衆議院に依拠する政党勢力が鋭く対立衝突したものの

 天皇はしばしば詔勅を発し、調停者的機能を発揮した。

 また、藩閥政府内の元勲間にあった政策や感情の上での対立においても、

天皇は宥和に努めた。

 

 外交上は1894年(明治27年)の日英通商航海条約、1902年(明治35年)の日英同盟など大国との条約を締結し、列強の一員たるべく、

軍事的・経済的な国力の増強を図った。

 

 日本が初めて直面した外国との近代戦争である日清戦争日露戦争では、明治天皇大本営で直接戦争指導に当たった。他方、日露戦争の『宣戦の詔勅』に続いて作成された詔勅草案は、「信教の自由」と「戦争の不幸」を強調していたが、

大臣らの署名がないまま交付されなかった

 

 また、日清戦争の勝利により獲得した台湾、日露戦争後は、韓国併合による朝鮮領有や満州経営(現在の中国東北部)を進め、日本をイギリスやフランス、ドイツなど他の西洋列強のような植民帝国へと膨張させる政策を採用。

 

 明治44年(1911年)には、開国以来の懸案であったイギリスやアメリカなどの欧米各国との不平等条約の改正を完了させ、名実共に日本は列強の一員となった。

 

 いまの時代は、国家の使命と社会の使命との境界が完全にズレがちで、

国家が保証する平等化はもやは十分とはいえず、国家や国家概念というものそのものが、地球規模の変化のなかで、信頼性がゆらいでいる

 

この時代は、近代国家の基盤が生まれた時代で

 いま迎えている変化は、この副産物としてでてきた問題や、

内包されていたゆがみが、

 国家自身がもはや その体を保っていられないくらい外観が変貌してしまっている

 

 最初に書いた 偉大な個人の出現というような、

大衆の願望やパトスが一人の個に集約されたようなカタチで

象徴的に具現化する背景は、

たいてい社会の危機的状況とセットで、現れる

 

社会現象の集約でもあるのだろうと...このチャートを見ていてしみじみ思った

 

 出るべくして、出現するべくして現れたそういう星図なので、

いろんな話があるけれど

そういうのを すべて脇に置いておいても、必要な存在だった...

というのが個人見解です。

 

 

 

 

象徴というのは、いろんな 意味があり、複雑で、権威や権力、

そして民族だけの意味ではない、別次元も含まれるということ。 

孝明天皇のあのチャートでは、この動乱を担がれて象徴存在として表舞台で乗り切ることは適わなかったと思う。

 なので、本当に....深いな歴史...というのが感想です。

 

 

 

チャートは、ひとつめ明治天皇の出生図、ふたつめ五箇条の御誓文

ふたつめ軍人勅諭の発令された日

 

 

 

 

 

 

 

 

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☆前回のこぼれ話

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今日は明治天皇について...語ろうと思うのだけれど
明治天皇について書く前に

 前回、孝明天皇について書いた記事で崩御から152年と書いたけれど
あの年、1866年は、 3月にスーパーブルーブラッドムーンが起こりました。
今年1月と同じ現象ですが、 1866年は3月1日、そして3月31日に起きた天体現象で。今年年明けのは152年ぶりの宇宙イベントでもあったとです

 日本は慶応2年(1866年)のまさに幕末期で、この年の3月に薩長同盟が成立(3月7日)、

坂本龍馬寺田屋で襲撃され(3月9日)、 年末に孝明天皇崩御... 翌年2月に明治天皇が即位

徳川慶喜江戸幕府15代将軍となり、最後の将軍として、明治維新へ向かっていく

そういう日本史上の重大な出来事が 怒涛のように起きた年でもありました。

 この一年が日本を変えたといっても言い過ぎではないくらいの事象の連続ですが
時系列を追うと
あまりに出来レース
 そう思うのは、オラだけではないと思う

 坂本龍馬は翌年、1887年近江屋で暗殺された...まったくの私観だけど薩摩藩陰謀説がゆうりょくだと思っている

 というのは、龍馬は、諸侯会議による新政府の設立を説いており、大政奉還を受け入れた徳川慶喜をそこに含めることを想定していた。武力討幕を支持していなかった。そういう意味では孝明天皇と 同じような穏健派だったから。 薩長は、武力倒幕と旧権力の排除を目指していた。龍馬の存在は邪魔以外のなにものでもない。武力倒幕派の暗躍説は、信ぴょう性があると、オラは思っている
 そして、その背後には、グラバー系、英国勢力の目論見があってのことだったと思っている

 戊辰戦争に大量武器を補給した英米は、新政府樹立の前から 根回ししていた

それは、現代でも同様だけど、本当に彼らのやり方は、変わらない。 傀儡政権が作れれば植民支配あるいは、表向きは手を出さない。 それだけだ。
 黒幕説はゆるぎないと個人的には思っている。実行犯は薩長だったというだけで

 こういうこと書き始めると どんどん逸れかねないので
このくらいにしておくけれど。所説あるので、 そんな見方もあるのだとおもってください

 別に、ひとつの方向性に導きたいわけじゃないので
暗にいってるだろう! っていうのはお約束w 

ゴールがないと 文章は成立しないので...(;・∀・))

 寄り道はともかく、、この時期は、怒涛の変革モード
 

 1866年3月は、初旬は天王星は双子座29度でノーアスペクト
 そのあとの新月のとき 蟹座入りして太陽とスクエア

次の満月時には
 山羊座10度の太陽は海王星とぴったりコンジャンクション

 天王星が星座移動するときは、大きな変革期だと前にも書いてきました。
 今年でいえば、3月、天王星は、牡牛座に完全移動します。 牡羊座入りした8年前は2011年、震災の時期でした。

 蟹座は、国家やルーツをあらわします。 この象徴に移動し、それから加速度的に、世相を変え、それまでになかった新政府を建立し、 天王星はすべてを変えるわけでなく一部異変というのが定説ですが
徳川幕府の体制を 上手に利用して、上書きしていったというのがオラの見解です。

これ以上かいていくと、、明治政府、そして明治憲法と 明治天皇から離れるのでいったんここで終えておきます。

 日本の精神というものも 近代化で作られたといってしまえばそれまでなので
 
 天皇家に関しても、秀吉と、秀吉を取り巻いた公卿に拠って復権した「権威」を封印したのは
徳川幕府で、250年 政治と無縁にさせられた

 秀吉との間では、朝鮮出兵に反対していた後陽成天皇の存在とか、天皇家との関係が良かったかといえば、そこにはまた確執があったりしたけれど。 とりあえず口を挟む余地はあったのが
 まったく途絶えて 政治は東へ移ったのが江戸時代

 サイクル的には、数百年周期的なものかもしれない

 そして、肝心の明治天皇だけれど

 明治天皇、幼名 睦仁(祐宮)は流産で夭折(ようせつ)していたという説もあったり。
 孝明天皇中山慶子との実子は流れてしまったため、伏見宮貞教と鷹司積子との子を養子としてもらい受けたといわれています。

 睦仁親王の御少年期であるとして広まった写真の人物は、孝明天皇の養子となった伏見宮貞愛親王だとも。

 明治天皇として出てくる画像の代表的なもの
 画像添付しました。 

 

 写真を見ると、いろいろ思うところありますが、
マロの系統じゃにないだろう! と
突っ込みいれたくなったり、
孝明天皇とは あまりに違いすぎるけど 伏見宮貞教の血を引いてるかも疑わしい。

って
本当に 言いたくなってもしょうがない

虚弱で、 つるっとした肌だった と記録にあるのに
明治天皇は痘痕顔だったという女官の手記もある

けれど

出生日が存在している以上は
それをベースにみるのが占星学なので

このあとは、
チャートをもとに解読していきます

(;・∀・))

 

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