AKOAKO’s diary

著作家☆西洋占星術研究家☆古代史研究者☆森村あこのブログです♪

見放されるコロナ患者  〜結核の歴史から思うこと〜

 

新型コロナ 都内で自宅療養急増「こぼれてしまう人いるかも」 

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けっきょく

こういうの見て思うのは

今 時代は21世紀 元号は令和

なんか 笑えるほど いい加減なことしてることに

本気で 考えなしなのが 気持ち悪い

感染症の歴史のなかで直近の

明治時代 を振り返って有名なのは 結核

結核については

ドイツのハイデルベルクでハックルされた

9000年前の人骨から

結核性の痕跡が認められたことから

 人類史の古くから存在したといわれている

 日本では1800年前の遺跡から結核痕が発見されている

 そして その

  結核菌は

  1,800年前頃中国からの技術者など渡来によって齎されたと

  考えられている

 そうだよ! これもか!

  っていう

  それ以前は存在しなかった

  大陸にはあっても ガラパゴスにはなかった結核

 それはともかく

  結核菌はその後長く沈潜し、

  家内工業門前町が発達をはじめた江戸時代に

 蠢動を始め,明治の産業革命と共に爆発的に流行したと

 されている

  ここ最近、近代化の150年くらいのあいだのこと

  近代化がもたらした弊害でもあるだけど

  明治政府による近代化の促進と産業革命の進行 

  富国強兵の強行

  そうしたなか

   り結核は都市を中心に爆発的に流行   

   当時の唯一の対応策であった安静療法の療養所は、

  富裕層の患者を対象で

  1889(明治22)年

  須磨浦療病院が鶴崎平八郎により建設されたのが

   にほんの結核診療のはじまり

  世界では1882(明治15)Koch, R. によって

  結核菌が発見され 

  1890年には初めての結核治療薬として

  「ツベルクリン療法」が発表され

  翌91年には東京医科大学(現東大)に肺病

  治療室を開設して研究を開始

これより少し前

1883(明治16)年「大日本私立衛生

会」が発足し,国に協力して急性伝染病対策を進め

てきた。しかし明治末期には「われわれは既に急性

伝染病には打ち勝っている」

結核結核菌による伝染病であることがわかったことで

それに対応し1901(明治34)年には

 蓄牛結核予防法が施行

 行政官庁が牛のツベルクリン反応検査を行い

 重症結核なら撲殺するなど

  牛結核対策がヨーロッパ諸国より強力に行われた

 続いて1904(明治37)年内務省

「肺結核予防ニ関スル件」が制定

 結核が喀痰により伝染する

 という当時の学説に基づき

 公衆の集まるところには痰壷を設置

 痰の消毒を行ったほか

 結核患者が居住した部屋

使用した物品は消毒するように徹底された。

 しかもこのとき 政府予算をほとんどつかわず

 警官による取り締まりが中心だったという

  そういうあたりは かわらないのかも

  とも思うけど

 結核の感染性を理解したことで

 日本の公衆衛生は促進された

  ほかにも 感染症チフスコレラ赤痢といった

  いろいろ あったので

  衛生の意識は育った

  そして (旧)結核予防法の制定

  1904〜5 年の日露戦争の勝利は

  軍部にとっては 万々歳だったろうけど

  国民の生活は劣悪で過酷な労働条件のうえに

 農村の疲弊で 低迷し 健康状態の悪化とともに

  結核は増加の一途を辿った

  1911

(明治44)年には明治天皇により「済世勅語」と共

に貧民済世の資として金50万円(現在に直せば17億

円以上)が下賜され

 これに感動した 医師 林 止は結核患者の治療と予防を目指して白十字会を結成して活動を開始するなどの動きもあった

「日本結核予防協会」が結成されたのは

 1913(大正 2)年

教育・宣伝などの事業に着手した。

化学療法も BCG もなかった当時,唯一の結核

策は患者の隔離で伝染を防ぐことであった

私立の

療養所はいくつかあったが高額で

一般の患者には手が届かないため

1914(大正 3)年「結核

養所及国庫補助ニ関スル法律」が制定され

人口30万以上の都市に療養所の設置を命ずる事が出来るとし

1/2 ないし 1/6 の費用を国庫が負担するとした

これにもとづいて

最初に建設されたのは

 1917大正 6)年の大阪の刀根山病院

その後

東京、京都などが続き、大正末には10都市で建設され

私立療養所も合わせれば全国では3,000床

けれども 到底患者の数にはまにあわず

当時の結核死亡数は113,045人で

増加を続けていた。

このため1919(大正8)年には

人口 5 万以上の地方公共団体に療養所の設置を命ずる

ことが出来るように「(旧)結核予防法」が制定され

1922(大正11)年の公立療養所長会で日本結核

学会の設立が提議・承認されて,翌年第1回結核

学会総会が開催された

これによって国内研究が推進

その成果は

 初感染発病学説の確立(1935頃)

 間接撮影法の開発(1936)

 結核集団検診方法の確立(1940)

 BCG 効果の確認(1943)など

目覚ましい 研究成果は 国内の結核対策に生かされ

 日本独自の対策が立てられていったのだ

けれども 経済的な発展、工場法の制定、結核療養所の建設

などで大正の中期から僅かずつ減少を見せていた結

核死亡率が

 1931(昭和 6)年の満州事変の勃発,

戦時体制の進展と共に再び増加に転じ

初感染発病学説に基づき結核感染者の早期発見

保養を進める民間の「早期診断所」や

警視庁衛生部の「結核相談所」は

既に多く造られていたが受診者は多くなかったらしい

東京市は1931(昭和 6)年

小石川に最初の

「公立結核相談所」を設立

それが いまの

保健所建設の第 1 歩となった。

しかし

戦時体制の進展により結核はさらに増加の一途を

辿り とくに男性の死亡率の上昇が著しかった

1934(昭和 9)年「結核予防の根本的対策」が

答申され,

1、結核病床の3,000床増床

2、結核発病防止相談所を人口10万につき 1 ヶ所

  全国で650建設

3、結核予防法を改正し届け出制度を新設するなど

これを受けて,1936年から結核予防国民運動が展開され

1937(昭和12)年に保健所法が制定

10カ年計画で全国に550保健所が建設されることとなった

そうした 

結核予防法の大改正を迎える契機となったのは

1945(昭和20)年 8 月に敗戦

国土は焦土と化し  焼け野原のなか国民の健康状態は酷かった

限度を超

えた栄養失調では結核は急速に進展・悪化

統計の数字が出ていないので 実態はどのくらいだったか

定かではないものの

結核死亡率も極めて高

かったと考えられている

ほかにも赤痢ジフテリア、腸チフス

発疹チフスなどの急性伝染病も爆発的に流行したため

占領軍総司令部は結核を含め感染症対策の推進を

(自国(米軍)の将兵の安全のためにも)

積極的に指導と援助を行い

公衆衛生対策が強力に進められた

とりあえず

 長々 書いてきたけれど

 そうだよ 病原との戦いは そう簡単じゃない

 コロナは今後 変異はどんどん出るのだから

  コロナ病棟 作っていいと思う

  結核病棟作ったように

  五輪のあの4兆円とか税金で賄われるのをおもえば

  こんな 自宅療養で さらに市中感染増やすより

  隔離したほうがいい

対策、対策と言いながら

  なんの 具体的な対策も講じられていない

  国民に丸投げ

  あんまりだと思ったから

  結核の歴史を 振り返ってみようと思ったのだ

  こんなこと書きながらも

  ここらで 人口半減したほうが

   ふんとはいいのかもしれないとも思うけど

   資本主義の 矛盾は 

  搾取構造を構築するだけで 還元にならない

  どうすべきかを 具体的に出さないのは

  日本という国が 国民のためのものじゃないからだけど

  日本は 日本のやり方で 策を講じて

  研究機関もたてて

  追従型やめてもらいたい

  国民の疲弊は 中途半端なことだけじゃなく

   推進力のない 政府が がん細胞の巣窟というか

  永田村(伏魔殿)が魑魅魍魎だけで

  人間による人間のためのシステムでないからだ

  ほかにも

   書こうと思ったことあるだけど

   長くなりすぎたのでこの辺で

  細かくかくと もっといろいろあったのだけど

   民間組織とかのこととかは割愛した

  なんで こんなの書いたのかは

   自宅療養では もう足らないなら

   どこかに箱つくって囲え!って思うから

   そうすれば 救急車が何時間も 病院探しで奔走なんていう無駄もしなくていい

  8時間以上巡っても どこも受け入れ先なくて

  諦めて もういいですといって諦めた話とか

  昨日 報道されていた

  救急隊の人たちが 気の毒すぎる

  なんなんだろうね

  スピード感とかいいながら 遅々として なにもしない政府に

  憤りしかないよ

  会議やってもなんも進展ないなら

  そのお金を 患者のための システム作り投下したほうが

 建設的ら

  いったい何考えてるのか わからない

  みんなはどう思うだろう

   そんなとき 過去の事例は ひとつの見解として

  参考にはなると思う

  常にそうして いろいろ向き合ってきた歴史は

  困難を乗り越えてきた証だから

  無策の策は

 あらゆること やりつくした後で

  それが意味をなすというのであって

  最初から なにもしないというものじゃない

  こんなことぶつくさ書いても変わらないかもしれないけど

  こんなのあったらいいなは 未来を築くから

  新型コロナ研究と 同時に 隔離施設ほか

  お篭りのための 軽症者の収容施設

  ワクチンのブーストよりも 重要だとおもう

  防疫の感覚は 五輪の開催したことといい

 まるきりないみたいだから 水際は ふんとは

  死守してほしかったけど

  変異が 増えるのは アウトブレイクを引き起こすから

   冬ごろ また 変異のすごいの 到来する可能性も

  濃厚なのに  

   このまま だらだら 無策でおしつけられるのは

  なんか違うとおもう